青年はまだ心地良い酔いを引きずっていた。タクシ―の窓に映り込む身体はまだ火照っている。外は既に暗く、街路樹だけがひっそりと夜の中で凍えていた。飲み会の途中で掛かってきた電話の内容を反芻しても、何が起きているのかは理解できなかった。
―弟さんの携帯電話で間違いないでしょうか
「はい、そうですけど」
―実は、お姉様の引き取りにいらして頂きたいのですが
「えっ姉が怪我か何かしたんですか」
―いえ、お姉様はご無事です。ただ、
「はあ」
―当院に入院なさった方の付き添いでいらっしゃったのですが…え―、あの、何と言いましょうか、少々、気が動転しておられるようですので、
「…分かりました、今から伺います」
 今日は外出する予定は無かったはずだ、そう彼は朝を振り返る。それなのに何故、深夜に程近い今、姉の「お迎え」に行かねばならないのか。重い頭で思考しても答えが出ぬことを悟った彼は、病院へ向う道程に目を向けた。信号を抜けた先に、街外れの大きな病院の影が見え始める。人が生まれて死ぬ場所にしては不吉な白だ、と彼は独りごちた。

 車から降りる頃には彼の酔いも随分と抜け、彼は漸く自分が薄着をし過ぎていることに思い至った。足早に正面玄関に回るも、外来の診察時間はとうに過ぎている。施錠されたガラス戸に左手を押し当てて溜息を付く。時計はもう頂上を周っていた。透明な板が少しずつ彼の体温で曇ってゆく。そこから手を離して、脇の緊急用の出入り口をくぐると、広いロビ―に椅子が鎮座している。スニ―カ―と床のこすれあう音を聞きながら彼は歩みを進める。ロビ―は深夜にしては生暖かかった。やがて、病室に一番近い椅子で、うずくまり震える女が視界に入った。自身を抱きしめるかのように回された腕の先、爪はしっかりと彼女のコ―トに食い込んでいた。ネイルア―トは女が自分自身のためにするものだ、というテレビ番組の文句が彼の頭をよぎった。
「姉貴、どうしたんだよ」
 女の身体がびくりと震える。しかし彼女は背を向けたままだ。
「こんな遅くに姉貴の迎えに呼び出されるなんてな」
「かがみ、」
「は?」
「鏡、うちにあるよね」
「あぁ、玄関にあったじゃん。なんだっけ、あれ。あ、全身鏡っての?」
「返ってすぐに、退けて」
 彼女は音も無く立ち上がる。しかしなおも背を向けたままである。暗い病棟のほうを向いたまま、目を合わせようとしない。振り返らぬままにどこかへ行ってしまいそうな背中であった。

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2010.10.17/小山彩音



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