彼らが家に帰りつくころには、車すら中々走らない時間になっていた。玄関前で頑として先に入ろうとしない姉に、先ほどの約束を思い出した青年は、敷居を跨ぐと鏡に大きなバスタオルをかけ、バスタオルで覆うことのできない洗面所の鏡については、扉を閉めて見えないようにしてやった。そうして、リビングに入って椅子を引いてやる。すると彼の姉はなんとか靴を脱いで、鏡のある方向から顔を逸らしながら、椅子の横まで歩いた。彼がマグを取り出し、二人分のコ―ヒ―が湯気を立てる頃になって、漸く彼女はコ―トを脱いだ。
「夜遅くにごめん。もう寝てていいよ」
「目、覚めちまった」
「ごめん」
「まあ明日は土曜だし、平気」
「でも、ごめん」
ごめん、ごめん。詩を暗誦させられているかのように彼女は繰り返す。そして、鞄の中から薄いノ―トのようなものを取り出すと、彼の目の前に差し出した。
「何これ」
「今日、いや、もう昨日だね。昨日の夕方、友達から呼び出されて、彼女の家に行ったの」
「友達?」
「ほら、私が高校行ってたころのクラスメ―トで、同じ部活だった子がいたでしょう」
「あ―、何回か家に来た人だよね」
彼女は静かに頷いた。姉の友人にあたる先輩とやらは、高校を卒業してからも姉と頻繁に連絡を取り合っていたようだった。しかし、会うのは数年ぶりだったらしい。出不精な姉が突然の外出をした理由に納得すると、彼はノ―トに目を落とした。
「じゃあこれ、その先輩の?」
「そう。あの子の日記」
「なんでこれを」
「読んでほしいって、言われたの」
他人のものを勝手に覗くのは気が引けたが、疲れでぼんやりとした頭で断りを入れ、彼は日記を開いた。茶色っぽい染みが可憐な表紙に不釣合いだ。
―一限から教授にすっぽかされた。あ―あ、早くから分かってたら家でもっと寝れたのに。休講の掲示くらい出してよ。お陰で三十分待ちぼうけだし。生協も空いてないからそのまま教室で寝たけど、図書館行けばよかったかも。
「普通の日記にしか見えないんだけど」
いくら読んだところで、大層なことが書いてあるとも思えなかった。元来、日記というもの自体そんなものだろう。ブログとかと違って、他者が見ることを想定していない。だから覗いたって面白くもなんともないのに。青年が不満げな顔をしていたことに気が付いたのか、彼の姉は手帳を半ばほどまで捲ってもう一度差し出した。廊下から入り込む隙間風が、コ―ヒ―で温まった身体に心地良い。もう少し涼しさが欲しかった彼は、立ち上がりリビングと廊下を隔てる扉を少し開けに行った。扉の先に光の射さない玄関が見える。バスタオルを羽織った長身を一瞥すると、彼はもう一度座りなおした。視線を几帳面な字の羅列に落とす。テ―ブルの向かいに座った姉が、静かに目を閉じる気配がした。
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2010.10.17/小山彩音