―もう疲れた。腕を撫でると、ささくれ立った肌が指の腹に当たる。人前で腕を捲くることが出来ない。首は腫れたまま。タ―トルネックばっかり好んで着るようになった。髪の毛は跳ねて無造作になった。シャンプ―すら使えないから、どれだけ汚く見られてもどうしようもない。顎や鼻先はいつ触っても不愉快な油分に覆われている。瞼も擦りすぎて爛れている。瞬く度に皮膚と皮膚が擦り合わさって、そこに汗が混じって染みる。痛みに眉を顰めても、涙を流しても、一向に良くならない。この数ヶ月の間、悪化するばかりで何も好転しやしない。何がいけなかったんだろう。私がいけないのだろうか。どれだけ掻き毟りたい衝動に駆られても、自分の身体を傷つけるのは愚かなことと、そう思わなければならないのか。醜い顔だ。なんて汚い顔なんだろうか。誰が見たところで大して印象は変わらないのだろう。望んだところで決して綺麗になってくれない表皮。たった少しのこの薄い皮のせいで、私はこんなに苦しんでいるのか。皮の一枚が人間の何を決めるというのか。その皮膚の少し下では赤い液体が脈打っている。邪魔な一枚さえなければ、私は自由に生きていけるというのに。

「私が彼女の家に辿り着いたときには、もう彼女は限界を迎えていたのだと思うの。玄関の鍵が開いていて、呼び鈴に返事もない。靴を脱いで、玄関を上がると広いリビングが見える。でも、彼女はそこには居ない」
 姉の顔からは、次第に色が失せていった。青年は姉に制止の声をかけようかと躊躇ったが、話さずには居れなさそうな様子に口を噤んだ。
「リビングの先の小さな部屋の扉を開けると、寝室が見えたの。そこには女性の後姿があったの。でも、声をかけても振り返らない。ただ笑って、そうだ、そこに日記あるでしょう、それを読んでみてくれない、って言ったの」
「その日記が、このノ―ト?」
「ええ。そして、ノ―トを閉じて彼女の方をもう一度向いたら、鏡越しに彼女の顔が見えたの…」

 居間の時計のみが音を立てていた。青年の姉は、事の顛末を話し終えると、力尽きたように机に突っ伏した。そして祈るように組まれていた両手も、次第に力をなくす。それらは彼女の後頭部に着地すると、そのまま寝息に合わせて微かに上下していた。こちら側に取り残された青年は、頭を守るかのように積み重なる姉の腕を取り除けると、そのまま彼女を抱き上げて彼女ベッドに横たえた。そして、マグを洗って逆さに伏せて、自分も部屋に戻ろうと廊下を歩いた。行く手、ちょうど正面に見える玄関には、彼が着付けた鏡が立っている。それを横目に見ながら、彼は自室に入った。
 姉から聞いた言葉を頭の中で反芻する。部屋は灯りも点けていないせいで暗かったが、それでも微かに窓の外が白みかけていた。仄暗い部屋を出て、もう一度廊下に出る。もう彼の姉は眠りに着いた頃であろう。隣の部屋からは微かに寝返りを打つような音が聞こえている。彼は、静かに玄関の方へと足を踏み出した。そして、バスタオルのかかった鏡の前に立つ。鏡は光の射さない玄関で身動きもせずに鎮座していた。それの纏う上着を、彼は少しだけ捲った。鏡に映り込む瞳。目を逸らしてはいけない、とっさに青年は感じた。鏡の中の眼球を見つめる。ここに映っているのは誰の瞳であるのだろうか。それは青年の瞳であろうか。彼の姉と同じ面影の瞳であろうか。どちらの瞳が正しく現実に生きている瞳なのだろうか。暗闇の中、眼だけが生きている。まさしく瞳だけが輝いていた。そうして鏡の中を見つめこむうちに、次第に青年の前髪が下りてくる。男子にしては少々長いそれは、鏡と瞳の間に微かに入り込んだ。そこで漸く青年は我に帰り、バスタオルを鏡に掛け直すことに取りかかった。それが済むと彼は、逃げるように薄明るい自室に潜り込んで布団を頭から被った。再び彼の周りは暗闇に包まれた。

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2010.10.17/小山彩音



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