桐島先生の本名は、桐島晴姫といい「きりしまはるき」と読む。何でも、両親が好きな作家の下の名前をとったはいいが、生まれたのは女の子であったらしい。そこで、女の子らしさを出すために「姫」という文字を入れたのだそうだ。
「中学くらいまでは、テストのときも下の名前を平仮名で書いてたのよねー」
クラス替えをしたばかりの頃にホームルームでそう言って笑っていた先生のことを、僕らは影で「姫ちゃん」と呼んでいる。
「せめて桐ちゃんくらいなら許せるんだけどねぇ」
目の前の桐島先生は、そう言って苦笑いを零した。国語科準備室は辞書の他に字典や便覧、古い教科書が敷き詰められている。地震が起きたら『文字禍』よろしく圧死してしまうだろう。そんな桐島先生の根城には、ホームルーム時間中ということもあって、僕ら2人しかいなかった。
「あいつらも最近憚らずに言うから、対処に困るよ」
先生はよく笑う人である。嬉しかろうが悲しかろうが笑っているのかもしれない。そんな桐島先生の指示で、今週のホームルームの裏では面談が行われていた。先週決まったキャストから優先して行うらしく、残った連中は文化祭の役割分担を決めていた。
「さてさて、本日最後は原田理くんですね。まあ、あんまり長くかけるつもりはないから、ちゃっちゃと済ませましょう」
桐島先生の机は他の先生の机よりも小綺麗である。その机のキャビネット脇に掛けてある紙の束を取り出すと、先生は万年筆をくるくると回した。
「先生、その紙は何なんですか」
「ん?ああ、これは使用済みのプリントの中で裏面が白紙のものを纏めてあるの。最近は公立の高校といえど経費削減ってうるさいからね。だから、」
そう言って先生はぱらぱらと紙をめくった。
「桃色とか黄色とか、あとは…あ、ほら、青もあるでしょう。素麺みたいよね。原田くんは何色がいい?」
特に色の希望はなかったが、とりあえず青とだけ伝えた。
「んじゃ、これにしよう。あ、ちゃんと使ったものはシュレッダー掛けてるから安心してね」
こうして微妙な緊張感の中、面談が始まった。
「そっか、じゃあ、とりあえず理工学部志望だね」
「はい。バイオも良いかなとは思ったのですが、やっぱり理工学部の、特に理学系のことやりたいので」
「まぁ、今のところ勉強面ではあんまり心配してないし、2年の間はこの調子を維持していければ良い線行くんじゃないかな。まぁ、狙う大学にも依るから一概には言えないけど。とにかく今からペース上げすぎて、息切れを起こさないように、それだけは肝に銘じておいて下さいね」
「でも、今はまだ学年で2番手です」
「言い方が悪かったかな、ごめん。確かに、1位ではないね。もちろん、さらに上を目指すのは大切なことですよね」
「いえ…すみません」
「ただ、ここからは教師じゃなくて、単純に国語を教える人の話だと思って聞いて欲しいんだけどね、」
そう言って先生は言葉を切った。
「国語の入試問題を解く上で求められているものは何か、分かるかな」
「文章を正確に読み取ることですか」
「そう。そこに共感はいらないんです。字面を追って、忠実に書いてあることを読み取れば良い。極端なことを言えば、感情を入れすぎてしまうと間違えるんです。でも、本来文章の受け取り方は各人の自由だと言う考え方もありますよね」
「独り善がりな読み方だと思います」
そう告げれば、桐島先生は笑った。その中で微かに眉尻が下がっていた。遠くの方で、ホームルーム終了を告げるチャイムが鳴る。
「確かに。でも、出来ればどちらの読み方もできるようになって欲しいんです、私は。正確に、冷静に本文を辿る。でも、読んでいる私たちは機械じゃなくて人間なんだから、心を響かせることを忘れないで欲しいんですよ」
正直に言えば、そんなものは理想論にすぎないと思った。実際に大学に入るのに求められているスキルは、点数をとるテクニックだというのが自分の実感だった。
「さーて、思ったより長話になっちゃったね。とりあえず、今のところの進路についてはこれで了解しました。教室戻って良いよ」
「はい。ありがとうございました」
そう言って席を立つと、万年筆のキャップを閉めてブラウスに挿した先生がもう一度口を開いた。
「そうだ、無理にとは言わないけど、図書館にでも寄ってみたら?どうせ、教室に戻る途中にあるんだから」
数学系の本が新しく入ったって図書委員が言ってたよ。そう言って笑った先生の顔を見たら、どうしても断ることができず、返事の代わりに会釈をして準備室の戸を閉めた。