気まぐれに図書館に寄ってみようと考えたのには、特に理由はなかった。強いて言うならば、茹だるような暑さから逃げ出そうと、目に付いた施設に入ったのが理由だろうか。
「あれは、伊波さん…か?」
小さく呟いてしまった直後に周りを見渡したが、幸い周りの人間は読書に集中しているらしく、僕の独り言は聞こえていなかったようだ。
伊波さんは僕と同じく学校帰りのようで、いつもの紺のベストに長袖のシャツを肘の手前まで折って着ていた。後ろ姿しか見えないが、しっとりとした黒髪も、さっぱりと纏めている。
児童書のコーナーにほど近い、彼女の座る席。テーブルの上には物語に出てくるみたいに積み上げた本の山が2つあった。タイトルに共通しているのは、「美女と野獣」。資料を探しているのだろうか。
本で出来たバリケードの周りには子供たちが集まっていて、本を読んでいるはずの彼女の近くにいるようだった。不審に思って近づくと、近くにいた女の子たちが僕をふさぐように手を広げて正面に立った。
「お姉ちゃんを泣かさないで!!」
「へ?泣かす?」
すると、違う女の子が口を開いた。
「お姉ちゃん、いっつも図書館で本を読んでは泣くの!だから、みぃちゃんたちで、お姉ちゃんを守ったげるの!!」
話が飲み込めずに呆然としていると、ガタンと音を立てて伊波さんが席を立つ。そしてこちらを向いて、一瞬目を丸くした。そして、いつものように微笑む。
「あれ、原田くん?」
僕も、周りの子供たちも、へなへなと力が抜けた瞬間だった。
「そっか、あの子たちはそんな風に言ってくれてたんだね」
図書館の貸し出し手続きを済ませた彼女を連れて、とりあえず目の前の喫茶店へ入ると、相変わらずののんびりとした口調で彼女はしゃべり出した。
「言ってたんだねって…彼女たちは「いつも」と言ってたけど、よくあることなんじゃないのか」
「あー、そうなの…かな?」
そう言って伊波さんはミルクティーを飲んだ。僕が首を傾げると、彼女は続ける。
「確かにここのとこずっと通っていたから、いつも居たし泣いてもいたんだけど…私、本を読み始めると周りが見えなくなるから、気づかなかったのかもしれないね」
そういえば帰るときに、小さい子に「泣き虫のお姉ちゃん、バイバイ!」って言われたような…、と言う彼女の目元は微かにまだ赤い。先ほどトイレで濡らしてきたハンカチを手渡すと、伊波さんは申し訳無さそうに目に当てた。白い顔に、ほんのり紅をさしたような唇と頬、そして僕の黒いハンカチが鮮やかに映える。
「何で泣いていたのか、聞いても良いか。失礼かもしれないけど、伊波さんが泣くのって想像しにくいから」
ハンカチを当てたままの伊波さんの唇が動く。
「私の本の読み方はまだ幼いんだと思うの」
まるで自分の頭の中を整理するかのように、ゆっくりと口を動かす。
「だから、登場人物に感情移入しちゃって。美女を待っている野獣の気持ちを考えていたら」
「悲しくなったのか」
「ううん、きっと、野獣は信じて待っていたはずだから。つらかったと思うけど、それでも彼は希望を失くさなかったと思うの」
「じゃあ、なんで」
「美女はどんな気持ちだったのかなって考えると何だか悲しかったの。野獣が待っていて、戻らなきゃって思いながらも家を離れられなくて。美女も野獣も、2人ともつらかったと思うの」
言い終わると、伊波さんはハンカチを外した。そこにはいつものようにほのぼのと笑う伊波さんがいた。
「原田くん、」
喫茶店を出て、しばらく歩くと駅の改札に着く。そのホームが分かれる直前に伊波さんは口を開いた。
「どうしたの?」
「劇、絶対に成功させようね!」
いつもなら言わないようなクサい台詞を彼女は言って、にっこりと笑った。どうしてもそれを茶化すことが出来なかった。
「あぁ」
エスカレーターに乗った彼女の膝丈のスカートが、温い風に揺れた。
おまけ@次の練習日
(原田くん)
(ん?)
(この間はハンカチありが)
(あ、ちょっ、ここでその話は止め、)
(おい原田!伊波ちゃんと何があったんだよ!俺の知らないところで伊波ちゃんと会ったのか!?許せん、伊波ちゃんはこんなに可愛くて声も…)
(??…原田くん、高島くん何かあったの?なんかぶつぶつ呟いてるけど…)
(いや、まあ、うん、色々あるんだろうな…1人にしてやってくれ)
(そっか…あ、とりあえず、ハンカチ。ありがとうございました)
(…どういたしまして)