退屈な日常から抜け出したいと願うのは、過ぎた願望なのだろうか。退屈でない日常が伴う精神的苦痛と身体的疲労は、その日常がもたらす解放感と充足感よりも軽いものなのだろうか。そう考えて逡巡する俺は意気地無しなのかもしれない。

 最近、水姫の様子がおかしい。そう感じたのは、1週間ぶりに彼女の家を訪ねた時のことだった。水姫は要領の良いヤツだから、俺の出した課題は必ずやる。それはどんなに学校の宿題が多い時であろうと、どんなに友達との約束が立て込んだ時であろうと変わらなかった。だからこそ、俺はこの従姉妹の家庭教師を引き受けて来たのだ。実際、今日だって目の下にクマを作りながらも指定した範囲はきちんとこなされている。課題を解いたルーズリーフと、俺の解説を書くための薄桃のノートが机に広がっているいつもの光景。問題は、そのノートだった。
「あれ、この前は薄青のノートじゃなかったか?」
 思い返せばそれはどうでも良いことのはずだった。
「え、前からこれだったよ」
 水姫も否定しているのだから、無理にほじくり返すことではない。そう理性は言っている。対して、本能は疑いの眼差しを向ける。前回の「授業」の時に、問題を解いている途中でノートが切れたから、薄青の大学ノートを出したんじゃないか。水姫だから、水色のを使うの、と彼女は笑ってみせた。そして、ノートの表紙に「まさ兄ぃの数学」と書いたはずだ。でも、と理性が囁く。数学は計算が多いんだから、ノートの減りは速い。水姫はチャラいように見えてやることはやる勉強家だ。だから、すぐ使い切ってしまっただけかもしれない。たくさんの課題を出したのだから、おかしくはないのでは。いやいや、やはりおかしい。ノートに課題を解いたのなら、そこに広がっているルーズリーフは何だ。
「まさ兄ぃ、政臣兄さん。ボーッとしないでよ!って、もう時間かな」

 そんなことを考えている間に、2時間の授業が終わった。水姫は、お茶とお菓子持ってくるから待っててね、と階下に降りていった。
「こんなこと考えてても無意味か」
 俺はそう呟くと、ノートの下に埋もれているテキストを手に取って、次までの課題の範囲を決めることにした。ぱたり、ノートが閉じて表紙が目に入る。そこには、科目用の白いシールが貼られていて、上には「まさ兄ぃの数学」と書かれていた。相変わらず綺麗な字だ。女の子とはみな、こんなに綺麗な字を書く生き物なのか?だとしたら俺は生粋の男だ、と当たり前の事実に少し笑えた。そのシールの下には、うっすらと赤い線が見える。薄桃色のノートに赤の線はないよな、だから貼り直したのか。そう考えながらノートを元に戻す。最初のページを千切ったのか、そのノートは少し不格好だった。そうしてテキストを手に取り、範囲を決めて付箋を貼ると、少し手持ち無沙汰になった。きょろきょろと部屋を見渡す俺の視界に入る、薄青。部屋の隅に纏められた、旧年度のものであろうプリントたちに埋もれていた。見覚えのあるそれを手に取って驚愕した。全ページに書かれた言葉たち。

媚び売ってんじゃないわよ、このブス
いつもいつも要領良く立ち回りやがって 成績だって先生にオネガイしてんじゃないの?
いつも澄ました顔しやがってうぜぇんだよ
うちらの○○先輩に手ぇ出すなし
先輩はあんたのことなんてなんとも思ってないんだから勘違いしないでよ

 でも、赤で書かれたその言葉よりも、俺を驚かせた言葉がある。末尾に、水色で書かれたその言葉。

 私の努力は、あんたたちに分かって欲しいとも思わない。だから、過程じゃなく結果で否応なく分からせてやるわ。覚悟してろよ

 放心していた俺の背後でカタリと音がして、水姫がいつの間にか入って来ていたことに気付いた。こそこそとノートを開いていたことを謝ろうと、口を開いた俺を彼女が遮った。
「ほら、あたしってさ、要領良いし割と先輩受け良いでしょ?だから、こうやって絡んでくるやつ多いんだよね。でも構うだけ時間の無駄だし。モテるって辛いわぁ。だから、全員まとめて後で吠え面かかせてやるつもり。もちろん、勉強でね」

ストイック・ガールの戦い

 俺の退屈な日常が、非日常にリンクした瞬間だった。俺は当事者じゃないし、誰が、何が正しいのかなんて分からないけれど。それでもこの従姉妹の力になろうと思った。だって、彼女は本当は「要領良く」なんか無いのだと、知ってしまったから

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2010.03.31./小山彩音





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