じっとりとした空気を纏わせたカーディガンを、ふるりと払う。微かな水滴までもが落ちるような気がして、伸びるのも厭わず降り続けていると、目の前の戸が開く。そこに立っていたのは長身の学生だった。黒髪は猫のように柔らかく、湿った空気の中でしんなりと纏まっている。ナイフで切り裂いたかのような細い眼の奥に、紫に近い黒が見えている。出入り口に立っていたことを詫びると、出て来た男性は頭を振った後に話し始めた。
「申し訳ないんだが、傘を貸して貰えないか」
外は水分で暗く、心なしか霧っぽく視界が悪い。その先に、微かに紫が見える。
「何故、傘を」
「単純に傘をさす理由なら、雨が降っているから。頼んだ理由は、これからしばらく図書館にいるだろうから、だ」
どうしてそれが分かったのか、と不思議そうな顔をしていたのだろう。彼は私の手元を、黙って指差した。
「ノートと、付箋と、ルーズリーフ?」
「ここは図書館といっても古い資料ばかりの旧館だ。利用者は少ないし、鞄は入場前にロッカーに預けることになっている。だから、入場前に必要な勉強道具を出したんだろう?」
ゼミの資料を探しに来ていた。それも、古い絵巻である。新館の方には陰影本と呼ばれる、原作をスキャンした本すらなく、仕方なく尋ねたのがこの旧館だった。男の眼が、答えを待っているのが分かった。
「あなたの眼、紫陽花みたいな色ですね。…その傘、お気に入りなんです」
そう告げると、一瞬彼は言葉に詰まったようだった。そして、微かに笑った。
「心配しなくとも、俺はまだここに荷物を預けたままだ。ちゃんと戻って来るし、きちんと傘も返す。さっき教授の研究室に行った時に、折り傘を置いてきてしまっただけだ」
紫陽花の花言葉は「移り気」。眼前の彼の瞳の色と同じだった。
「私はしばらく地下2階にいます」
そう答えると、彼はありがとう、と告げて雨の中に一歩を踏み出した。そして、振り返る。
「そういう君の方こそ、紫陽花に似ているだろう」
どうして、と呟く間もなく彼は行ってしまった。屋根の下に残されたのは私と、乾いた空気を垂れ流す扉だけであった。
地下の空気は地上階よりもひんやりと、暗闇の湿り気を纏っていた。かつんかつん、と音を立てながらぼろぼろの階段を下りると、古い文庫本や全集が見えてきた。陰影本の類は地下2階の第3書庫にある。お目当ての本を数冊引き抜くと、再び地上3階に戻る。旧館は地上3階から地下3階までの狭くて高い建物である。利用者数が少ないために出入り口は地上3階のみであり、それがさらに利用者数を少なくしている。
「あ、」
ロビーにある自習用スペースも人が少ないことに変わりなく、20席以上はあるにもかかわらず、荷物があるのは僅かに4席程度だった。そんな中で何故か彼は私の真向かいに陣取っていた。
「お、お帰りなさい」
ふるりと睫毛が震え、紫の眼がこちらを向く。口元には微かな愉悦が浮かんでいる。何故かと思っていると、カウンターの方から強い視線を感じた。藍色の付箋を目の前の男は差し出す。
”静かにしないと追い出されるぞ”
誰のせいだ、と思いながら席に着くと、男の手元がくっきりと見えた。のどかな農村の風景の中に、暗く立ち尽くす絞首台と、一羽のカササギ。画面の左手には農民たちが踊っており、左下には用を足す男。
”ブリューゲル?”
”ああ”
”悪趣味だね”
”教授に言ってくれ”
思わず笑いが零れる。そして、また、司書からの鋭い視線。その後はお互いの作業に没頭し、気付いたら閉館の時間となっていた。
「雨、上がっちゃったね」
「折り傘をとってくる意味が無かったな」
「まぁ、でも折り傘は鞄の中に入れておくから便利なんじゃないの?」
「まぁな」
外に出る頃には雨は止み、じとじととした暑さのみが待ち受けていた。駅までの道を、成り行きで2人で歩く。
「さっきのブリューゲル、もしかして倉本教授の美学美術史演習のレポート?」
「ああ。君は一番前の中央に座ってるよな」
そう言われてぎょっとした。そうか、彼も同年で同じ専攻だったのか。驚きに言葉をなくしていると、さらに言葉を続けた。
「専攻飲みのときに隣の席だったんだが、覚えてなかったのか」
「ごめん、隣にゼミをとろうと思っている助教授がいたから、そっちに気がいってて」
「確か米倉助教授か」
「うん、奈良絵本の専門」
意外に話が通じる人のようで、驚いている自分に苦笑していると、駅の改札口に付いた。
「どっち方面?」
「3番線」
「あ、私1番線だから」
「じゃあ、また」
そういって背を向ける彼に最後に一言問いかける。
「ねぇ、何で私が紫陽花なの?」
ふわり、と笑った彼は思っていた以上に明るい眼の色をしていた。
「紫陽花のもう一つの花言葉は『元気な女性』だ」
もう一度背を向けた彼の細くしなやかな体躯が人ごみにまぎれながら階段を下りていくのを、ただただ見つめていた自分にもう一度苦笑して私も階段を下りた。