―1日目のこと―
小学生の悪戯は無邪気だが邪悪だ。私という「大人」を見て蜘蛛の子を散らすように逃げていった「子供」たちに取り残されたのは可憐な花。コンクリートの道路にずるずると引きずり上げられた睡蓮の蕾は、咲く時を今か今かと待ち侘びていたであろうに、照り返す日光の下で焼かれかけていた。
道路から少し歩いた所には公園があり、そこの泥のような池から引き抜かれたのだろう。今からで間に合うかどうかは定かでないが、一か八か試してみよう。通学途中に、池の上に可哀相な蕾を返してやる。
「君はまだ咲ける。帰りにまた通るから、きっと綺麗な花を見せて」
大学は学問をする場であって、断じて出会いの場でも私語の場でもない。そこを履き違えているとしか思えない、化粧が濃ゆくて煩い同級生に溜め息をついた。大教室の後方を陣取る彼女たちは、どうしてあんな所から薄くて小さい板書をメモできるのだろうか。
教授は私語と居眠りにも関わらず、マイクすら使わずに講義を続けていた。むしろ、前の方の真面目な学生にしか聞こえないようにしているのは、せめてもの配慮なのかもしれない。
授業終了の鐘が鳴ると、ざわめきは一層激しくなる。ぶつぶつとまだ呟いている教授の声は、雑音に塗れて宙に消える。仕方ない、人の波が去ったら質問しに行こう、そう思った時に涼しい声が掛けられる。
「これ、君が落としたのではないか?」
机の上からいつの間にか姿を消していたシャーペンが、目の前にいる見知らぬ男の掌に載っていた。
「ああ、ありがとうございます」
私の礼に対して頭を降った彼は、すらりと立ち上がると、もう一礼して去って行く。黒のシャツに黒のズボン、ひどく白い掌。格好からするに就活生ではないだろうが、どこか浮き世離れした男だった。
むしむしした午後を越えて訪れた夕方、真っ黒な池の上にはたくさんの白が浮かんでいた。その中に一輪、風に吹かれてはたゆたう花。
「あなたは綺麗ね。人間もみなあなたのように、純粋に汚れない生き物だったら良かったのに」
そう言って屈んでいた身を起こすと、花が寂しげに風に揺れた。
―2日目のこと―
睡蓮は朝に花を開き、夜に花を萎ませる。その様子から睡蓮と名付けられたのだが、花の寿命は平均して3日程度である。小学生の乱暴狼藉の被害にあった彼の花は、それよりも短命であるかもしれない。だからこそ再び開く前の花の前で、今日もまた言葉をかけてしまうのかもしれない。幸いにして枯れたりしそうな気配は無く、今日の帰りにはまた元気な開花が見られそうだ。前に何かの資料で読んだことがあるが、植物に話しかけると長持ちするらしい。それを言い訳にして花に語りかけている自分は傍から見れば滑稽なのかもしれない。特に、人間と話している時間が極端に短い私は、もはや人とではなくこの花と一緒に暮らしているといったほうが適切なのかもしれない。
法学演習の時間は私にとって一番の苦痛である。法学部に進んだことは後悔していないのだが、法学部の同級生が苦手だからだ。就職に有利、卒論が無い、という理由で入ってきた学生が多い中、国家公務員試験や法科大学院を目指す人間以外は単位の取得にしか興味が無いように見えた。
「A電気店で1年半前に購入したB社製テレビが突然火を噴いたとしましょう。被害を受けた方はどのような損害賠償ができるのでしょうか、まず前後左右の席の皆さんで話し合ってみてください」
演習の教授はやたらに学生同士で議論をさせたがる。それ自体は構わないし、意欲的な学生と話すこと自体、やぶさかではないのだ。しかし、この授業の履修生は残念ながら意欲的でない者が多い。その証拠に今日も今日とて私語ばかりであり、ただの雑談タイムになっている。それでも、何組かは真面目に話し合っているようだが、意欲的な友人同士で隣り合わせに座っているようだ。私のように社交性と協調性に欠ける人間には到底できない芸当だった。
「君はどう思う?」
どこかで聴いたような声がして振り返ると、私の背後にいたのは昨日の青年だった。背筋をピンと伸ばしている彼は意外に座高が高く。恐らく胴も足も長いタイプの長身なのだろう。
「売主との契約上の関係を考えるなら、債務不履行責任と瑕疵担保責任が考えられるけど…この場合小売店には帰責事由が無いから、瑕疵担保責任の方で行ったほうがいいと思う。まぁ、それでもテレビ本体価格までしか賠償されないから、家具とかに被害が出たとしたらそこは補填できないけど」
彼に私が答えると、ふむ、と一言考え込むようなそぶりを見せた。そして、隣に座っていた女子学生に話しかける。
「君は?」
「わ、私は…メーカーの不法行為責任でいくほうを考えたんですけど、品質保証契約はどうですかね?保証期間中は無料で修理できるし、新品との取り替えも可能ですよね」
それに対して突っ込みを入れようと思ったとき、男性の声が静かに割り込んだ。
「確かに保証期間中ならそれも良いとは思うが、通例テレビの保証は1年だからな。このケースでは難しいかもしれない。不法行為責任の場合、被害者がB社の故意・過失について立証責任を果たせば、家具などに及んだ損失も含めて因果関係にある全損害の賠償請求ができる。ただ、被害者が複数というわけではなければ、今回のケースでは蓋然性の証明だけでは済まない。そうなると、この線でいくのも難しいだろうな」
そこで男は言葉を切ると、教授のほうを窺うように見た。
「俺は製造物責任が良いと思うんだが、おそらくこの後教授が話すだろう」
その言葉の直後、教授が話し始め、青年が言ったとおりの授業展開をみることとなった。授業中、幾度か議論をすることとなったが、彼の意見は常に正論であり、ノートも取っていないのに何故か完璧な解答をしていた。そして、今年初の有意義な授業の終了の音が無常にも鳴る。
授業が終わった後、足早に教室を去った青年の隣の席に座っていた女子が、楽しげに話しかけてきた。
「さっきの彼もそうだけど、あなたも凄いですね!私なんか、予習しても全然出来てなくて…でも、あなたたちと一緒に授業を受けているとなんか勉強になるんです。良かったら、次から一緒に座りませんか」
本年度初、友人が出来た瞬間だった。
帰り道に寄った池では、やはり昨日のように一輪だけゆらゆらと水面を漂う花が待っていた。その他大勢と付かず離れずの距離を保っているその花に、何となく自分と似たものを感じて親近感を抱いた。
「今日初めて、真剣に喋れるかもしれない人と出会ったの。勉強しに来てる人が自分だけじゃないって分かると、ちょっとホッとした。もしかしたら、あなたのお陰なのかもしれないね」
闇にぽつんと咲いたように見える睡蓮の花は、白くほっそりとした花弁を風に揺らし、すす、と近くの睡蓮に寄り添った。そして、私のようなその花は、ふわりふわりと笑ってみせた気がした。
―3日目のこと―
もってこの花の命は今日までだろう。そう思うと、朝からとても切ない気持ちになる。元来、人とのコミュニケーションに多大な不安を抱える自分は、花や動物に過剰に心を寄せる傾向にある。それが感傷をいっそう際立たせているのかもしれない。今日の帰りもどうか咲いていてほしい。だれにともなく祈ると、急いで大学へと向かった。そして、駅で甲斐が無かったことを知る。
電車は大幅に遅れていたが、地元の路線だけのようで当然授業は通常通り進行していた。遠距離通学の私からすればとても不便なことであり、輪を掛けてノートを貸してくれるような友人もいないので頭が痛くなる。そこに、微かな希望を見出すきっかけが見えた。
「おはよう。あの、申し訳ないんだけど、ノートを見せてもらえない、かな…」
昨日であった女子生徒は、一瞬きょとんとすると、にっこり笑って承諾してくれた。電車が遅れた事情を話すと、大変だったねと言いながらノートを手渡してくれる。そして、もごもごと感謝の意を告げようとする私を遮って一言。
「だって、困ったときはお互い様でしょ!私たち、友達じゃない」
いつもなら反吐が出ると切り捨てるような台詞だった。でも、何故か目の前の彼女を見ていると、刺々しい心境は引っ込んだままだ。
「…ありがとう」
帰りに寄った池では、変わらずあの花が咲いている。でも、どこか元気がないようにも見えて、途端に心細くなった。そして、池の端に思わぬ人物が立っている。
「君か。今帰りか?」
そう行って彼は薄く笑った。その笑い方は今にも消えそうな儚さをまとっていて、何故だか心が強く掻き毟られる。
「あなたはどうしてここに、」
「恩人に礼を言うために待っていたんだ」
「恩人?」
「ああ。おかげで夢を実現することが出来た」
彼の視線の先には大量の睡蓮の花と、一人ぼっちの花。消えてしまいそうな一厘を優しく救い上げると、こちらに向けて差し出した。
「この花の寿命は今日を限りに尽きる」
「どうしてそれを?」
私の問いには全く答えないままに、彼はなお花をこちらに向けて立ち尽くしている。その瞬間に、ざっと風が吹いて花を揺らした。薄い薄い微笑が、網膜に鮮やかに焼きついた。
―ありがとう、最後に俺を咲かせてくれて
涼やかな声と一片の花びらを私の掌に残して、花と青年は風と共に姿を消した。白い、美しい花びらを顔に近づけて口付ける。微かな残り香に胸の奥がじんと痛んだ。一瞬意識を失いそうなほどの艶やかさと寂寞の念に、止まった足は動き出さなかった。それでも、もう一風吹いた瞬間、私の足は自分の道へと踏み出していた。大丈夫、私には新たな友とこの花びらが付いているのだから。