彼女と2人、横断歩道の前で信号待ちをしている。
それは一瞬の出来事だった。彼女の背中に両の掌を当てる。親指の付け根に力を入れて、前に押し出す。自分の手と彼女の背が離れる。指先にはほんのりと、暖かさと柔らかさが残る。 あぁ、こんなもんなのか、ぼんやり考えた。少し力を加えるとあっけなく彼女は前に倒れ、タイミング良くやってきた車のボンネットに激突した。申し訳程度に急停止音が響き、人間の体が舞い上がった。そうしてフロントガラスの上に落ちてくると、そのままもう一度バウンドし、車の天井を転がって地面に落ちた。不自然に手足が捩れた状態で、彼女は動かなくなる。意外とあっけなかったな、と小さな声で呟いてしまった程だ。 通りには車と自分と彼女しかおらず、慌てて外に出てきた男が自分に縋りつくように話し始めた。 「俺は、俺、普通に走ってて、そうしたら、その子が、そうだその子がいきなり飛び出してきたのが悪いんだ、俺じゃない、そうだろ、なぁ、何とか言ってくれよ」 幸運なことに、運転していた男は誰がこの事件を引き起こしたのか見ていなかったらしい。密やかに、手に残る彼女の背中の柔らかさを握り締めながら、自分も男を擁護する。 「ええ、彼女がいきなり飛び出して、僕、止めようと思ったんです。でも、いきなりのことで、気が付いたときにはもう、」 そうとだけ言って声を震わせてその場に崩れ落ちる。完璧だ、と思った。どうせこの男は自分の保身に忙しいのだろう。男の喜ぶ発言さえしておけば充分だろう、と。 衝動的に彼女の背を押したのは、而して計画的なものでもあった。実を言えば、数ヶ月前からずっと、自分の頭の中では彼女を殺し続けてきたのだから。どうやって殺そうか、電車に突き落とすか、眺めの良いビルの上から突き落とそうか、それとも車道に突き出すか。だが、思いついたのはどれも突き飛ばす類のものばかりであった。それではつまらない、もっと感触が手に残るものの方がいいのかもしれない。たとえば、両手両足を縛った上で少しずつ首を絞めるとか、刃物で一思いに突き刺すとか。処理が楽なのは何だろう。やっぱり断崖絶壁の上から突き落とすとかだろうか。どうせなら雪山登山で谷底に突き落としたがムードがあると思う。上手くいけば何万年も経った後で発掘されてアイスウーマンとして珍重がられるかも知れないし。でも、やっぱり何年もずっと手に感覚が刻まれて、包丁やロープを握るたびにフラッシュバックするような、そんな殺し方も良いと思う。そんなことばかり考えていた。そうして、ふと彼女が背を向けた瞬間にその思いは再燃することとなる。気付いたら、手が動いていた。
とりあえず、救急車を呼びましょう、と言った瞬間に、背後から白い手が伸びてきて肩を掴まれた。振り向くと、そこには女の顔があった。彼女は肩をつかんだまま、逆の手で鞄の中から携帯電話を取り出すと、救急車と警察に連絡を入れる。そして、電話を切ると突然肩から手を離して、横たわる身体の状態を確認しながら口を開いた。 「一先ずできうる限りの応急処置はしておきます。ですが、この様子だと救急隊員が来るまで持つかどうか…もし、証人が必要だとか言われたときのために、私の名刺をお渡ししておきますね。運転していたあなたに非が無いこともきちんと私から言わせていただきますので、とりあえず落ち着いてください。」 その言葉に運転手はありがとうございます、と連呼し、自分の名刺も渡していた。こういう時って普通逃げるんじゃないのだろうか、と考えていると、女の名刺がこちらにも向く。ぼんやりと眺めていると、ショックで何も考えられないのが普通ですよね、と女が口を開いた。そうだ、とりあえずこれを受け取らないと怪しまれるかもしれない。 「ご親切にありがとうございます」 結局女は警察の事情聴取にも進んで参加していたようだった。良くは知らないが、妙に責任感がある女性なのかもしれない。そうして、自分の調書をとられているときに気付いた。女はどこから見ていたのだろう。運転手が取り乱しているときからであろうか。それとも、身体がボンネットの上を待っていたときであろうか。それとも、 「彼女の背中を押した瞬間か、」 気付けば思わず口に出していたその言葉に、初めて悪寒を感じた。そうだ、手を下したのは自分なのであった。よくよく考えてみれば、彼女を殺したのは自分である。何でそんな簡単なことに今まで気付かなかったのだろう。そう思うと、胸の奥が震えた。ああ、遂に成し遂げたのだ。足ががくがくと震えて廊下の角に膝から倒れこむ。そうだ、遂にやったんだ。彼女をこの手で、この両の掌で死に追いやった。手はぶるぶると振るえ、涙がとても熱く感じられる。自分は生きているのだ。彼女は死んだのに、自分はこうして堂々と生きている。何という幸福だろうか。何という喜びだろうか。口元が歪むのをどうしても押さえられない。仕方なく、鞄の中からマスクを取り出して引きつる口元を覆った。その瞬間、背後から白い手が伸びてきて肩を2回叩いた。 「大丈夫ですか」 それは先ほどの名刺の女、確か、本谷美由紀という名前のはずの人間だった。 「この度は…心中お察しするに余りあります」 「いえ…まだ何が起こったのか全然わからなくて、彼女がいきなり前に飛び出して、そうして気付いたら車に」 そう伝えると本谷はええ、ええ、と相槌を打ちながら建物の外に向かって歩き始めた。何だ、最初から見ていた訳ではなかったのか。そう思うと少し安心した。 「榎本秋子さんでしたよね、事故に遭われた女性は…失礼ですが、どういったご関係だったのですか?」 「大学の同期です。と言っても数年前までで、今はお互いに社会人ですが。何故だか分かりませんが、ご縁あって卒業後も会うことが多かったんです」 「では、恋人さんとかそういう訳ではなかったんですか」 「恋人、ですか」 そんな捉え方もあるのかもしれない、と他人事のように感じた。正直に言って、全く考えたことがなかったからだ。でも、確かにその言葉が一番しっくり来るのかもしれない。友人というには近すぎたが、家族などでは決してなかった。じゃあ、彼女のことを愛していたのだろうか。そこまで考えて、すぐに違うと気付いた。愛している女性を車道に突き出して殺すなんて、尋常じゃないだろう。 「…何か、失礼なことを申し上げてしまいましたか?楽しそうにお話していたのを拝見したのでそうかなと思ったのですが」 「いいえ、ただ、僕は彼女との関係を充分に話すだけの言葉を持ち合わせていないんです。よく一緒にいただけで、でも、確かに彼女はとても大切な人です。なくてはならない、大切な人です」 そう答えると、一瞬女性は驚いたような顔をした。だが、ちょうどそこは建物の出口であり、開くのが遅い自動ドアに気をとられて何故かは訊けなかった。 「いつごろから見ていらっしゃったんですか」 そう別れ際に尋ねると、彼女は小さな声で答えて足早に去っていった。 「横断歩道に立ってらっしゃったときからです」
家に帰ると、とりあえず名刺を使って本谷美由紀について調べた。まさか、彼女が最初から全て見ていたとは思わなかった。早くどうにかしなければならない。一先ず、住所とか電話番号とか、何か個人的に連絡を取れるような情報を探さなければならない。そうして、彼女が真実を語る前に口止めしなければならない。どうしようか、やはり大金を払わなければならないのだろうか。あるいは何か彼女の弱みを探さなければならないか。いや、それよりも手っ取り早い方法は彼女を殺してしまうことだ。そうすれば、楽に口止めできる。でも、そんなことをすれば怪しまれるに決まっている。目撃者を殺すなんて大変なことになるのではないか。運転手が疑われるか、いや、彼女は運転手に有利な証言を仄めかしていた。となるとあの男が本谷を殺すことは考えにくい。だめだ、どう考えても割に合わない。 そこまで考えて、ふとあることに気付いた。もし彼女が真実を語っていたとすれば、自分がここにいること自体がおかしい。どう考えたって殺人罪で捕まっているはずだ。ということは、彼女は警察で誰が彼女を殺したのか語っていないのだろうか。でも、理由が分からない。何故だ、何のメリットが彼女にあるんだ。何故本当のことを話さないのか、思い当たる節が全くない。 考えても無駄なように思われた。どうせ、本当のことを話すなら今日話しているはずだし、いざ本当のことを話されたら潔くつかまって刑務所に入ればいいだけのことだ。第一の目的であった彼女を殺すということを達成しているのだから、今更何も失うものはない。あわただしく起動させたパソコンをシャットダウンさせようとして、ふと手を止め、メーラーを開く。毎日必ず彼女からメールが来るから、それをチェックしなければならない。 「あれ、来てない。あ、そうか、殺しちゃったんだっけ」 こんな簡単なことにも気付かないなんて、自分は本当にどうかしてしまったようだ。手元が震え始めたが、その理由もよく分からぬまま、今度こそパソコンをシャットダウンしてベットに入る。うとうととまどろむ度に、手の先に柔らかくて暖かい皮膚の感触を感じて目が覚める。爪に刺さるブラウスとその奥の肉が生々しく刻まれていた。こうしていれば一生彼女と一緒に生きているような感じだろう。生きていた頃の彼女も大切な人間であったが、死んでからのほうが現実味を伴って知覚させられるのがなんとも滑稽だった。
翌日になって分かったこと。本谷美由紀という人間は全くもって誰かわからない。名刺は大きな企業の名前と電話番号が記されており、そこに電話をかけてみたものの連絡が取れない。漸く繋がったかと思えば、表記の部署に本谷という人間はおりません、とのことだった。ここで考えられるのは二通り。一つ目は古い名刺を渡された。二つ目は、偽の名刺を渡された。後者ならば、本谷美由紀という名前も本物ではないのだろう。いずれにせよ、最初から選択する余地はなかったのだ。彼女がどう動くにせよ、こちらから能動的に働きかけることなんか出来ない。ただ黙って息を吸って吐いて、のうのうと生きているしかないのだろう。 夕食を食べた後、ノートパソコンを起動させる。そして、メールのチェックをする。そうだ、だから彼女は死んだんだった。馬鹿の一つ覚えのように毎日毎日メールチェックをしては送られてこないメールに心を乱される自分が愚かに感じられた。そんなことならば彼女のことを殺さなければ良かったと、初めて感じた。 そういえば、自分は彼女からのメールを楽しみにしていたんだろうか。というよりも、何で自分は彼女のことを殺したのだろうか。その理由すら曖昧になってきていて、少し苦笑する。まだ両手には彼女の体温が残っているというのに、どうして精神的なことを忘れてしまったのだろうか。でも、彼女に対して、嫌な感情は一切抱いていなかったはずだ。同じ空気を吸って同じ空間にいることが苦ではなかった。そこで、本谷の言葉を反芻する。 ― では、恋人さんとかそういう訳ではなかったんですか 自分と彼女の関係は世間一般には恋人と呼ばれるのだろうか。今までは、周りから自分たちがどう見えているのかなど興味もなかったが、一度言われると気になるものである。恋人というものはなんだろうか。お互いに告白して、手を繋いでキスをして、お互いにお互い以外の人間を見れないようにしてしまう、麻疹のようなものだと思っていた。少なくとも、自分の身の回りにいる人間にとって恋とか愛はそんなものだったように思う。だとすれば、自分と彼女の関係は恐らく該当しない。
彼女とは大学の同期であった。新歓期、チラシの嵐の中で困ったようにはにかむ彼女を、しつこい勧誘から助けたのがきっかけである。偶然にも2年次では語学のクラスが一緒となり、自然と言葉を交わすようになった。線が細く、色白で小柄な彼女と、どこか中性的な匂いのする細身な自分は、並んで立つと「淡白な色合いの西洋絵画」を思わせるのだそうだ。やたらに携帯電話のカメラを向けられ、凄く迷惑した記憶がある。目まぐるしく過ぎる学事日程も不景気な世間にも置いてきぼりにされ、いつも2人だけ取り残されているような気分だった。生きているようで生きていない、生きていないようで生きているような雰囲気で、この世を漂うかのように息をしていた。
もしかして、自分は彼女のことを愛していたのだろうか。自分と同じように世界から浮いていた、異質な匂いのする彼女に惹かれていたのだろうか。だとすれば、どうして自分は彼女を殺したのだろうか。不謹慎なのかもしれないが、寂しさは感じても罪悪感は感じていない。彼女を愛していたのならば、こんな感情を抱くのだろうか。考えれば考えるほど思考は混迷していくように思われて、またパソコンをシャットダウンする。思い返せばこの2日間、全うに食事もとっていなかった。とりあえず、何か体に入れておこうと思い、台所へと歩く。 台所は彼女のテリトリーだった。彼女が家に来るのは年に数回程度だったが、ほとんど何も喋らずに夕食を作って、静かに2人で食べて彼女を家まで送る。それがいつもの流れだったように思う。包丁の柄を握ると、背中を押した瞬間の彼女の暖かさが柄に移ってしまうような気がした。思わず包丁を取り落とす。シンクの中に金属の落ちる音が響いて、車の急停止音を思い出した。何故だか分からないが涙が零れてきたため、包丁もそのままに寝ることにした。
彼女がいなくなってからもう丸2日が経つ。包丁を落としてからというもの、やたらに彼女のことを思い出すために、思った以上に作業が進まず、仕方なく散歩に出ることにした。気付けば事故現場に向かっており、誰が備えたのかわからないが、そこには花束と缶ジュースやお菓子が置かれていた。彼女は人望があったのか。それを思うと、彼女を殺して本当に良かったと感じた。彼女の背中を押したのと同じ場所に立って、あの時と同じ赤信号を眺めていると、彼女がいなくなったことなど嘘のように感じられた。その瞬間、右肩が強く引かれた。白い、女の右手。 「あなたは、本谷さん、ですか」 「はい。あなたはどうしてここへ」 「何となく思い出したら来たくなったんです」 そう告げると、女性は面白そうに微笑み、何故でしょうね、と呟いた。 「あなたは何故本当のことを仰らないのですか。僕が彼女を突き飛ばしたところを見ていたのでしょう」 女性は先日と違って実に楽しそうであり、笑みを絶やさなかった。その様子に始めて気色悪さを感じる。女性は、陽気な表情で語る。 「あなたがどんな反応をするのか気になったんです。どうせあの女性、秋子さんでしたか、彼女は助からないんです。あなたの罪を告発しようがしまいが、彼女の生死は変わりませんし。それに、私には彼女が無念のうちに死んだのか、それとも満足して死んでいたのかを知ることも出来なければ推し量ることも出来ません。そんなおこがましいことをしたら、それこそ罰が当たるんじゃないでしょうか」 「それでは、これから先も言うつもりはないのですか」 「あなたが言って欲しいと望むのならば話は別ですが」 女性は相変わらずにこやかである。不気味さだけが募り、彼女の意図するところがあまり理解できず、喜ぶべきなのか起こるべきなのか、それとも悲しむべきなのかも伝わってこない。注釈もタイトルもない抽象画を見ているような気分である。すると彼女がさらに口を開いた。 「ただ、一つだけ聞きたいことがあるんです」 「何でしょうか」 「彼女を殺してみてどうですか。率直な感想を聞かせてください」 難しい質問だった。それが分かっていれば、今こんなに混乱しているはずはないだろう。彼女を殺してみて、漠然と寂しさは感じる。メールも電話もかかってこないし、もう直接顔を合わせることもないのだろう。だが、後悔しているかと言われれば微妙だ。彼女がもうこれ以上誰とも触れることがなく、悲しむことも苦しむこともない。そして何より、他ならない自分の手によって彼女の生涯は終わったのだ。病魔に蝕まれるでもなく、天災によって命を落としたわけでもない。そのことがどうしようもなく嬉しかった。そう伝えると、本谷は面白そうに笑った。 「あなたは本当に独占欲のお強い方のようですね」 「独占欲、ですか?」 ええ、と女は笑う。 「それって、秋子さんのことを愛していたということでしょう?」
思考が完全にフリーズする。いや、そんなことはないはずだ。だって、愛しているのなら彼女のことを殺すはずないではないか。でも、逆に言えば自分は彼女のことを憎く思っていたのだろうか。そんなことはないような気がする。彼女はどこをとっても善良で真っ直ぐだった。憎く思う箇所など全く持って思い浮かばない。欠点は数個あった。朝弱いところとか、事前に充分な確認をしないこととか、人の話を最後まできちんと聞かず、失敗してから泣きついてくるところとか。でも、それが原因で彼女を殺したというわけでもない。では、何故彼女を?もしかして、彼女のことを愛していたのだろうか。 「愛していたという表現に語弊があるなら、言い方を変えましょう。あなたは彼女無しに生きていくことが出来ますか。それは、殺した後の記憶も無しに、という意味ですが」 彼女自身がこの世にいないことはどうしようもなく寂しいが、この手に感触が残っているから辛くはない。でも、この感触がなくなってしまったとしたら。 「記憶はいずれ薄れて消えていきますよ。何十年も経った後、あなたの手が皺だらけになったその先も、果たしてあなたの両手は彼女を覚えているのでしょうか」 全身に悪寒が走る。もし彼女のことを忘れてしまったら、自分はどうなってしまうんだろう。恐らく、何も変わらず一人で世の中を漂うように生きていくのだろう。何も変わらず。むしろ、彼女を失っても何も変わらないことのほうが恐ろしく感じた。彼女を殺しても殺さなくても、自分は何か変わるわけではない。それならば、 「彼女のことを殺さなければ良かった。彼女の記憶が消えていくくらいならば、どんなに彼女が変わってしまうとしても生きている方が良かった」
そう告げると、本谷はくつくつと笑いながら歩き出した。横断歩道に背を向けた自分を置き去りにして、ビルの角を曲がる。そうして、彼女の姿が完全に見えなくなると、背後から肩に手がかかった。その手の白さに、全身が震える。すると、優しく耳元で話す声。 「蓮くん、どうしたの。もうすぐ信号変わるよ」
彼女と2人、横断歩道の前で信号待ちをしている。徐に右手を彼女の左手と重ねると、暖かく柔らかかった。忘れないようにと力を入れて握ると、痛いよと顔をしかめられる。それでも、やんわりと握り返される。
―殺さなくて、良かった
信号が青に変わる。横断歩道を2人静かに、手を繋いで渡る。
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「小さな恋の物語」
2010.05.23./小山彩音