彼女の前に置かれているグラスは、随分前から汗をかいていた。それを気にすることもなく、彼女はストローの口を四角くしたり潰したりして遊んでいる。
 2時間ほど前からずっと、こうして無言で向かい合っているが、彼女はそのこと自体にはあまり苦痛を感じていないようだった。ストローが弄ばれる度に、ほとんど解けた氷の残滓が水中を彷徨う。笑い疲れたストローは、折られたところから劣化して白くなりつつある。
 周りのテーブルでは、家族連れが遅い昼食を取っていたり、大学生であろう集団が大量のコピーを睨み付けていたりしている。この店が回転率の悪さを悩みとして抱えているなら、間違いなく彼ら、そして俺達が原因の一端を担っているのだろう。
「何も聞かないの」
 思い出したように開かれた彼女の口からは、うっすらと謝罪の念が漏れていた。
「聞いて欲しいのか」
「ううん、いや、少し」
 彼女は未だにプラスティックと格闘している。
「何があったのか、ほんのり聞かせてくれ」
「それ、面白くないよ」
 口を突き出して言った彼女の目は、薄く笑っている。一口も口を付けられていない彼女のグラスから、ついに氷が消えていた。俺の目の前のコーヒーからも湯気がすっかり掻き消えている。
 彼女は店に入る前までは満面の笑みを浮かべていた。ウェイトレスにアップルジュースを頼む時も、にこやかに笑っていた。そして、商品が出されて2人きりになると無表情になり、今に至る。

 また黙り込んだ彼女の手元を見つめていると、机の上の直方体が震えだした。
「あ、ごめん、もうすぐバイトなんだった」
 着信を受けたらしい彼女は、店に入る前の笑みを貼り付けて電話に出る。
―もしもし、はいそうです。え、はい、今日は休み?え、パンフですか?あ、いえ…大丈夫です。はい。すぐ終わ…1人でですか、いや、大丈夫です。はい、分かりました。では後ほど伺いますので。はい、ありがとうございました。
 ああ、これが原因か。そう思っていると、彼女が慌てたように荷物をまとめ始めた。急いでジュースを飲む彼女に合わせて、俺もコーヒーを煽る。
「ごめん、行かなきゃ。お金は払っておくから、ゆっくり…」
「いや、俺も一緒に出よう」
「…ごめん」
「俺もバイトだ」
 そう言うと、彼女はほんのりと笑った。
「…2時間後からでしょ」
「早めに行ったところで叱られはしまい」
 せめて店の外に出るまでは、自然な微笑みでいて欲しかった、そう思いながら彼女の小さい背を追った。笑い過ぎてくたびれたストローだけが、グラスの中に鎮座していた。

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「ストローの笑い方」
2010.07.03./小山彩音



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