彼女が飛んだ。

それは彼女がぶっ飛んだ奴だということかもしれないし、彼女がマフラーをぱさりと揺らす程度にその場で飛んで見せたのかもしれない。階段を一段一段降りるのが面倒になって3段くらいまとめて下りるために足を踏み出したのか、あるいは世界と喧嘩した故に窓の外へと新しい終わりの一歩を踏み出したのかもしれなかった。可能性はいくらでもある。ただれっきとした事実はただ一つ。彼女が飛んだのだ。

 僕にとって何よりも大きなことというのは音楽だ。もっと身近なことでいえば、次の演奏会でソロがもらえるかどうかということに尽きる。大学生という僕の職業を考えれば、その程度のことがどうした勉強しろよお前は万年ニートか、という非難の声もあるかもしれない。だが、確かに今の僕の世界は音楽がダッフルコートを着て歩いているようなものだった。外は吹雪いているらしい。
 “sola”この単語一つがあるせいで僕の心は晴れないのだ。ラッパ片手にいらいらしながらロングトーンをする。言ってしまえばソロがもらえるかどうかなんていうのは選考担当者の音楽性に合った演奏をするかどうかであり、それが広く一般の人に感動を与えるかどうかも分からなければ、選考会の時の演奏と同じかそれ以上のものを演奏会当日に披露できるとも限らない。そして往々にして演奏会はほどほどにしか成功しな い。こんなことをつらつらと書き連ねていると、まるで僕は自分の演奏にものすごく自信があるか、あるいは絶望的に可能性がないか、と思われるだろう。そうだったら良かった。問題はラッパのソロ候補が4人いることだった。

 どこかの作家が言っていたように4人というのは都合の良い数なのだ。僕が将来銀行強盗をするならば絶対4人組にする。問題は、僕はどの役にも当てはまらないということのみだ。あ、羊は好きだな。とはいえ、安定している4人の中から1人を選ぶとなると話は全く変わるのだ。残念ながら僕のポジションは2番目、セカンド、補欠、予備。頑張ればソロを奪って下剋上となるやもしれないが、油断すれば三日天下に終わる可能性もある。ちょっと怠ければたちまち奈落の底へと墜落させられる。物語で成功するのは往々にして3番目だ。4番目はスポットライトの暑さを知ることもなく消えてゆく。

 いずれにせよここでうだうだ言ったところでどうしようもないこと位分かっている。練習しろ、練習してるよ。スタッカートにレガート、もっとメリハリを、いや、指の動きが悪すぎる。頭の中を響く声とラッパの歌声が不協和音となって気持ち悪い。音楽のくせに音が楽しくないとは何事だ。僕は激怒した。だが走らない。

 はぁ、仕方がないからお茶でも飲んでくるか、そう考えて自動販売機の方へと歩を進める。すると、ひそひそと話声がする。音楽準備室前、学指揮と部長の声が聞こえる。
「でも、コンクールの規定時間は絶対だ。仕方ないからここは削ろうぜ」
「激怒じゃすまねぇと思うけどな。あいつら必死で練習してるんだぜ、ここのソロ」
「そうだけど、たった10小説だし。ラッパ他に見せ場あるからいいじゃん」

ほら見ろ、彼女が飛んだ。

女性名詞

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Tromba(イタリア語):[女]トランペット
トランペットは女性名詞なので、solo→solaと変化します。何と分かりにくい…
2010.01.17/小山彩音


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