丘の上の公園からは緑に染まった街が一望できた。女は見晴らしの良いベンチに座って手に握り締めた何かをじっと見つめている。男はその隣でただただ黙りこくっていた。
「いざ踏み出そうって時になると、なかなか出来ないもんだね」
「皆そうだと思うよ」
「ほんっとに、何でこんなもの押し付けて行っちゃうかなぁ」
「託されて引き受けたんだ、やるしかないだろ」
男がそう言うと、女はぷう、と頬を膨らませた。たった一人の親友の頼みだよ、と女が呟く。
「じゃぁ、思いを汲んでやれ」
「分かってるよ」
それでも、これは私にとっても大切な彼女の思い出だから、という言葉が風に乗って街の方へと飛んでいく。
「桜って漢字の旧字体知ってるか」
「貝、貝、女って書くやつでしょ?」
「そう。音楽なんかで使われる櫻(エイ)という漢字だ。その左側の部分に当たる、二つの貝に女と書く部分は、珠のついた首飾りをめぐらせる様子を表している」
「そうなの?」
「俺も人から聞いた話なんだけどな」
そう言って男は、ふう、と一息ついた。
「んじゃ、なんでそれが植物の桜を表すようになったの?」
「桜桃」
「オウトウ?」
「そう、桜桃。いわゆる、サクランボのこと」
「あぁ、サクランボが首飾りの珠に見えたから、その漢字になったのか」
女が納得していると、男は徐に黒いリュックサックの中から小さな裁縫セットを取り出し、さらに小さなハサミを女に手渡した。
「何これ可愛い」
「要らないなら返せ」
「ありがと」
「妹から借りた」
「そっか」
女がゆっくりと、握り締めた掌を解いた。微かに震える指の合間から姿を現したのは、ほんのりと桜色をしたネックレスだった。テグスと思しき半透明の糸が、小さな珠を円形に繋ぎとめている。華奢な作りのそれに、同じく華奢で鋭利な刃をゆっくりと重ねる。ぷつり、と音を立ててテグスは簡単に断ち切られた。
「まだ手を離すなよ」
「分かってるよ、今離したら水の泡じゃん」
「それにしても強烈な友達だな。上京するから故郷に何か自分のものを残したい、って言って、親友にこんなことさせるなんてさ」
「傍から見たら死んだ友達の追悼みたいだよね。形見に見えるかもしれない」
「俺も最初に聞いたときはそうかと思った」
「心は故郷に残したいんだって。それにこれ、あの子の一番のお気に入りなんだよ?」
そう言って女は丘の下の街に向かって、桜の実をばら撒いた。都会に1人暮らす大切な親友に届くように、遠く、高く、緑の彼方へ向かって。
櫻の雨が降り注ぐ街
女が振り返ると、静かに微笑む男―潤也と目が合った。
「美雪、帰ろう。俺たちの街に」
美雪はもう一度だけ緑に視線をくれてやると、背を向けて潤也の方へと歩き出した。
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お題:「櫻雨」
2010.04.27./小山彩音