次期図書委員長としてステージ後列に座っている黒木さんは、僕と眼が合った瞬間に僕の手元を指さして、両手でハートマークを作って見せた。何故、この本だと気付いたのだろう。
体育館の空気は温く湿っている。空気中を舞う埃が大気に溶け込んで、静かに肺を侵している。そんな気がして眉を顰める僕の隣で、喋り続ける男が1人。
「何でお前が伊波ちゃんの隣の席なんだよ」
「クジだろ」
「ああ、伊波ちゃんが俺の隣の席だったら、毎日話しかけられるのにな。数学も教えてもらえるし…付き合ってくださいって言われちゃうかも知れないよな」
「…とりあえず、伊波さんはいつも寝てるぞ」
「あの凛々しい横顔がいいよな」
配役が決まってからというもの、めでたく伊波さんの相手役を引き当てた高島はやたらに饒舌に惚気てくる。実際には付き合っていないから惚気ですらないのだが。ストーカーになるのではないかと少し不安に思ったが、相変わらず伊波さんは授業終了のチャイムと共にどこかに消えてしまうから、大丈夫だろう。
「ていうかさー、何で伊波ちゃんいないんだよー。俺、帰っちゃおうかな」
「帰れよ」
そういえば伊波さんは、この生徒総会の場にいない。全校生徒がぼろぼろの体育館に詰め込まれているのだから、居ないはずはないのに、である。いつもなら後ろの方で1人、体育座りをしながら寝ている。そう思って後ろを振り返る。
「凄いな」
思わず言葉を漏らしてしまう。相変わらず気持ち悪い高島の後方では、サッカー部の3人が仲良く爆睡していた。そして、そのまま視線を少し横に移せば、立石さんが隣のクラスの男子と話をしているのが見える。
「えー、ちゃんと言葉で言ってくれないと、あたし、逃げちゃうんだからぁ」
猫撫で声をニヤニヤしながら聞いているのは、ピアスが眩しい茶髪の男だった。あれが例の彼氏なのだろう。
その時、隣のクラスの体育教師である権田の声が響いた。
「立石、静かにしろ!それと、久保田・江島・横田、いい加減に起きろ!」
立石さんは嫌な笑みを浮かべながら、すいませーんと答えた。対して、自分たちの顧問に居眠りが見つかったことに焦っているサッカー部の3人組は、飛び起きて即座に正座していた。
そんな様子に満足したのか、去っていこうとする権田に、僕の前の伴が声をかける。
「ねー、権田せんせー、姫ちゃんは?」
「桐島先生なら、今、面談をなさっているところだ。あと、教師をそんな風に呼ぶんじゃない」
言い終わるやいなや権田は背を向けて、少しうるさい1年生のほうへと歩いていった。それにしても、面談は先週からやっているのに、まだ終わっていなかったのか。わざわざ生徒総会の時間に説教をしなければならないような問題児は、うちのクラスにはいなかったような気がする。
隣のクラスから、自分の近くに目を移すと、奈良さんと宮川さんが何やら話しこんでいた。仲が悪いのに珍しい。
「あれー、奈良さん。あんたのご主人様の立石さん、あっちに行っちゃったけど、付いていかなくていいわけ?」
「うるさい。誰かさんみたいに間宮さんの金魚のフンじゃないのよ!」
…なんだかんだで楽しそうだと思うことにする。宮川さんの前に座る間宮さんは、僕の前に座る伴と一緒に台本の読み合わせをしているようだった。
「そっれにしても、お前の役ぴったりだよな〜。お前、意地悪な姉みたいに、男を顔で選ぶもんな!」
「な、あ、あんたには関係ないでしょ!」
「え、ちょ、マジで怒ってんの?」
「怒ってない!知らない!」
こちらはこちらで実に楽しそうである。
その伴の隣では、吹奏楽部の日向が楽譜を片手に何やらリズムをとっていた。指先がとんとんと動いている。そういえば、黒木さんも吹奏楽部だったか。そこまで考えてもう一度ステージの方に目線を戻すと、黒木さんはうたた寝をしていた。よくもまあ全校生徒の前で眠れるものだ、と思ったが、彼女の前には今の図書委員長の先輩がいるから、恐らくは周りから見えないのだろう。彼女の手元にも楽譜の束があるのが見えた。
「これで、本当に大丈夫か…?」
僕の発言を聞きつけた高島は、未だに熱を帯びた声で喋り続けている。
「大丈夫じゃない!そうだよ原田、俺は何としても彼女と仲良くなりたいんだ。何てったってあの紺のベストと捲くった袖が可愛いんだ。あと、纏めた黒髪とか、そこから覗く白いうなじとか…」
話し続けている高島に適当に相槌を打ちつつ、僕は手元に視線を動かした。これも何かの切欠だ、と諦めて読んでいたのは、先週伊波さんが貸し出し手続きをしてくれた本だった。内積が-1のベクトルは正反対の向き同士である。そのベクトルに男女をたとえ、最初はお互いに近づいていくのだが、いつの間にか擦れ違っていく様を描いた悲恋物だった。黒木さんは泣けると言っていたが、僕には到底感情移入できそうも無い。そこで浮かんだ疑問が一つ。
「伊波さんは、これを読んで何を思ったんだろう」
結局伊波さんの姿を次に見るのは、生徒総会を終えてホームルームに戻ったときだった。桐島先生が僕らを迎えるために教室の前にいたが、彼女はただ1人寂しげに、窓を見つめていた。
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